花窟神社〜御綱掛け神事
この場所では毎年二回、二月二日と十月二日に例大祭が執り行われる。それは『お綱かけ神事』と呼ばれていて、高さ七十メートルもの岩壁から百数十メートルもある綱が海岸へと渡され、その綱を地元の人々が七里御浜へと引いて行くんだ。 「QED ~VENTUS~ 熊野の残照」高田崇史
熊野市でも最も知られた神社の一つである花窟神社では、毎年2月2日と10月2日に例大祭が執り行われます。僕が敬愛する高田崇史さんの小説「QED ~VENTUS~ 熊野の残照」にも上記のように紹介されています。
今回は、10月2日に執り行われた御綱掛け神事に参加しましたので、その様子をご紹介します。
花窟神社
花窟神社は、日本書紀に記される日本最古の神社とも言われ、古来から多くの信仰を集めています。
伊弉諾尊・伊弉冉尊は神産みにより多くの神々を生み出しましたが、伊弉冉尊は火神・軻遇突智尊を生んだ際に火傷を負い、亡くなります。怒った伊弉諾尊は軻遇突智尊の首を刎ねてしまいます。花窟神社には、伊弉冉尊と軻遇突智尊が主祭神として祀られています。
熊野灘に面した崖一面に広がる巨大な磐座が御神体で、社殿はなく、ただ玉垣で囲んだ拝所が設けられているだけです。
御綱掛け神事とは
花窟神社の例大祭は、毎年2月2日と10月2日の二回執り行われますが、その中心となる神事が「御綱掛け神事」です。
花窟神社のウェブサイトによれば、「神々に舞を奉納し、日本一長いといわれております約170メートルの大綱を岩窟上45メートルほどの高さの御神体から境内南隅の松の御神木にわたします。」ということです。
磐座の上に結びつけられた綱が、地元の方をはじめとする大勢の参拝客のみなさんによって七里御浜の海岸まで引かれる神事は、たいへん勇壮です。
修祓〜御綱掛け神事まで
例大祭当日、普段はとても静かな花窟神社の境内は、溢れるばかりの参拝客でいっぱいになっています。御神体の前には緋毛氈が敷かれ、すぐ脇には神饌が準備されていました。
例大祭は、まず御神体の上に登って綱を掛ける七人の氏子の御祓いから始まります。
御祓いが終わると、氏子たちは御神体へと登っていきます。神職や参拝客は彼らが磐座を登る間、じっと待っています。
待つことおよそ20分、磐座の上から一本のロープが降りてきます。
そのロープに御綱の端が結びつけられると、御神体の上にいる氏子たちがそのロープをゆっくりと引き上げます。
御綱には、三旒の幡(みながれのはた)が取り付けられ、その下部には季節の花や扇が飾られています。
いよいよ御綱掛け神事
御綱が磐座の上まで引き上げられ、頂上付近に結びつけられている間に、待ちかねていた参拝客たちが取りつきます。この御綱に触れると神様と繋がることができると信じられているのです。
ちなみにこの綱は決して跨いではならず、理由は不明ですが進行方向に向かって左側から持つと決められているそうです。
御綱が結びつけられたとの合図が出ると、人々は氏子を先頭に七里御浜へ向かって御綱を引いていきます。国道42号線を通行止めにして道路を渡ります。
七里御浜に到達すると、待ち構えていた地元小学生たちも御綱を持ち、力を合わせて波打ち際までまっすぐ引きます。
御綱が全て引き出されると、引き手は国道42号線に近づくように引く向きを変えます。御神体の上にいる氏子の指示で綱を動かし、境内に高く聳える塔の上の窪みに綱を掛けます。時間がかかる年もあるとのことですが、今回はスムーズに掛かりました。
その後、御綱は氏子たちの手に引き継がれ、境内南端の柱にくくりつけられます。
綱を引き継いだ人々は急いで境内に戻ります。
御神体の上にいる氏子たちが、境内に向かって14個の餅を撒くのです。
これで御綱掛け神事は終了です。
浦安の舞、豊栄の舞
「だがね、この神事で舞う巫女さんたちは、地元の少女たちの中から選ばれるんだ。そして大きな髪飾りを付ける」
「その髪飾りというのは、熨斗なんだよ」
「そうだ。方形の色紙を折り畳んで、相手への進物に添える熨斗だ」
御神体の上に登っていた氏子たちが降りてくると、境内で神事が執り行われます。
祭壇に神饌が供えられ、厳かに祝詞が読まれます。
そして、高田崇史さんの小説にも描かれているとおり、髪飾りに熨斗を付けた巫女さんたちにより、神前で舞が奉納されます。
この後、玉串の奉納、白石の奉納、そして餅まきがあるのですが、この日は都合により僕は退出しましたので、今回の紹介は以上となります。
みなさんもぜひ次回2月2日の例大祭にお越しください。